幸せの後に訪れる気分の落ち込み
今、とても幸せ。
愛する人と一緒にいる時、特にそう強く感じます。
「愛する人」と表現できる自分はとても成長していると思います。
今までは、もし嫌われてしまったり、別れが訪れたりした時の事ばかり考えて、いざその日が訪れた時に傷付かない様、予防線を張っていました。
要するに、「人を好きになる自分」を受け入れなかったのです。
何か具体的に嫌われて傷付いた経験があった訳ではありません。
(記憶に無いだけかも知れません)
でも何故か、その場面を常に想像して、避けて来ました。
それは、おそらく小学校4年生くらいからだったので、自我が芽生えてきた頃からなのかも知れません。
この事については私の性格形成の中でとても重要な位置を締めているため、別の機会に詳しく書く事とします。
話を戻しますが、生きてきて40年間の中で初めて受け入れる事ができた「人を愛している」という自分。そしてその幸せな時間。
それ自体、とても嬉しい事であり、大きな成長を実感しています。
この大きな変化が心身に負担を齎しているのでしょうか。
幸せな時間の後に、必ず気分が落ち込むようになりました。
直近の事で言うと、昨日1日中愛する人と過ごしました。
美味しい物を一緒に食べたり、哲学的な事について語り合ったり、スキンシップを取ったり…。
とても幸せな時間でした。
そして翌日の今日。
朝、どうしても起き上がる事ができません。
母に資源ごみを出すのを頼まれていたので、何とか這い上がって出しましたが、その後また布団に潜り込み、眠りました。
料金プラン変更のため11時から携帯ショップへ予約していましたが、それもキャンセルしてしまいました。
そして、また眠りました。
鬱々とした気分で3時頃起き、布団の中で色々な思いを巡らせました。
考えるのはやはり、できない自分の事ばかり。
自分を責めてばかりで悪循環ですね。
その時、ふと愛する人に昨日意思表明したある事を思い出しました。
今月中は、ある事に集中する。
目的ですね。
それを思い出した途端、布団から起き上がる力が湧いてきました。
この「幸せの後に訪れる気分の落ち込み」は一体何なのだろう。
調べてみましたが、それらしき記事は見つかりませんでした。
私が求めるのは、同じ経験をしている人の事例です。
精神疾患なのかも知れません。
筋肉を作るには痛みを伴う。
それと同じでこの急激な成長の痛みなのかもしれません。
それなら、私はどう行動すれば良いのでしょうか。
アドラー(1)
昨日から、「嫌われる勇気」を読み始めました。
「嫌われている」という言葉は、今まで生きてきて何千回も何万回も、自分に対して繰り返し心で呟いてきた言葉です。
自分の心と身体は、「嫌われている」という言葉でできていると言っても良いほどです。
アドラーの思想も、この本のあらすじも知りませんが、この「嫌い」という文字に興味を持って、手にしました。
読み進めて早い段階で、「トラウマ」という言葉が出てきました。
私には、たくさんのトラウマと思われる記憶があり、何かを成し得ようとする度に支配され動けなくなってしまいます。
その過去と、影響を受けている現在は、自分では変える事はできない。
変えられる可能性が少しでもあるとすれば、カウンセリングに繰り返し通う事しかないと思い込んでいます。
それが、アドラーは「トラウマは存在しない」と言っているのです。
過去が原因するのではなく、その経験の中から目的にかなう物を見つけ出している。
「原因論」と「目的論」という、2つの対照的な考え方があるようです。
それを理解すれば、私のトラウマだと思っていた記憶も解消されるのでしょうか。
期待を持ちながら、さらに読み進めて行く事にします。
ロケットマン
久し振りに映画を観ました。
自分ではおそらく選ばないであろう、「ロケットマン」。
一緒に観た人と2人で選びました。
普段選ばない物を選ぶ。
それだけで、わくわくです。
エルトン・ジョンの半生を描いたノンフィクション映画でした。
ここからは多少ネタバレにもなりますので、読まれる時はお気を付けください。
滅多に家に帰らない父に、ハグして欲しいとずっと願っていた子どもの頃。
その深い思いを心の底に残したまま大人になり、心を許した人とのすれ違いは人一倍の凶器となって彼に襲いかかりました。
1番助けて欲しい時に、その人は去ってしまう。
しかも、2度も。
でも、素直になれません。
苦しみから逃れるために、ドラッグ・処方薬・セックスの中毒となって、遂には公衆の面前で自殺を図ります。
その後、カウンセリングで乗り越えます。
「寂しさ」は、色んな物が歪んで見える色眼鏡なのではないでしょうか。
深まれば深まるほど、その隙間を満たそうとするけれど、それは相手への期待となり、思い通りにならない焦りや裏切られたと感じる気持ちとなる。
そして、根が優しければ優しいほど、人を信じられない、優しくできない自分を責めて、自己嫌悪に陥るのではないでしょうか。
「優しい」という定義は難しいですが、ここでは自己犠牲的な意味でも使っています。
私は、この映画を観て、この「寂しさ」にとても共感しました。
私自身もずっと仕舞っていて、何かある毎に顔を出して邪魔をします。
エルトン・ジョンは、最後は人に頼る事なく1人で乗り越えました。
どうして乗り越えられたのでしょう。
私は、すれ違ってしまった人の存在があったからなのではないかと思いました。
その人を裏切ってしまった事で、もう誰も頼れなくなり、依存心が無くなったのではないでしょうか。
人へ期待しているうちは、本当のパワーは湧いてこないのです。